高校生活を振り返って。
第二回:放送委員会・放送部

今回は放送委員です。話はひょんなことから放送委員になったことから始まります。

 前回の話に出てきましたが・・・・・・最初から話しましょうか。
との発端は一年の後期の委員会決めの時でした.
一年次の担任、O先生は現在退職して今はカウンセリングのお仕事をなさっている人です。
しかし、この先生、結構「地で」・・・・・・ボケるんです。しかもちょっと重要な時に。
で、何とこの委員会決めの時に「ボケ」ました。
なんと本来募集しないはずの放送委員の募集をしたのです。
もともと放送委員に入ろうかと思っていた私は即手を挙げました。
O先:「じゃあ、カーネル君、よろしくね」
 こんなことで私は放送委員会入りしました。が、実はこの時僕は入っていなかったのです。
というのはもともとうちの学校の放送委員は放送部が兼務しているという形になっていて、
しかも放送部はすでに部活としては廃部という形になっていました。
というのもやる気のある部員がいなくなってしまったのです。
とはいうものの「放送係」がいなくなると先生方が大変になるか(仕事が増える)
もしくは新たに‘正式'放送委員会を起こさなくてはいけない、ということになります。
そこで、先生方は放送委員会と放送部を切り離し、とりあえず委員会を存続させたのです。
そして、「任意の委員会」、放送委員会ができたのです。
毎年毎年、なんとか人が数人(1〜)はいっていたので委員会としてはとりあえず問題なく続いていました。
(ただ、クリオティーは・・・・・・はぁ。)
 とりあえずはいったもののとくに集まりはないし(任意の委員会なので集まりは無し)、
顧問は知らない人だし、放送室はあっても生徒は入れないし(現在も普通の生徒は入れません)
。また、どうやらO先生は顧問の先生に何も言ってないらしく、聞いても「わからない」といわれました。
そんな感じでなにもできない、ないまま日は過ぎていました。
しかし、神は私を放送委員ではない高校生活をさせてくれませんでした。
(んなこたねぇよ)
 ある日は私は進路志望調査のプリント提出の期限が迫っていたので
その資料を探しに進路指導室にいきました。そこで放送委員顧問が一人、I田先生にであったのです。
そこで、何故か僕はI田先生と話し込んでいました。今考えても何で話し掛けたかわかりませんでした。
まあ、資料を探す時にちょっと何かを聞いたのでしょう。
そこでいろいろなことを話しました。それはPCのことが一番割合を占めていました。
それは前回の話なのでここでは書きませんが。
 さて、いろいろ話していたのですが、そんなときに一年生の先生がI田先生のところに来てこう言いました。
先生「あのI田先生、五時間目の学年集会の準備なんですが・・・・・・
I先:「ああ、それなら放送委員の鰻君が・・・・・ああ、そういや、カーネル君も放送委員にはいったんだっけ。
   この仕事をやってくれない?」
カー:「ああ、いいですよ。べつにこのぐらいできると思います」
 中学校のころ(正式には小学校のころから)放送委員だったので機械の基本的なうごかしかたぐらいは
理解していたので承諾しました。
先生:「ほんとうに大丈夫なのか〜?」
カー:「大丈夫っすよ。なに、そんなに難しいことじゃないし。」
先生:「ふ〜ん・・・・・まあ、よろしくね」
 こんなことで放送委員カーネルとしての初仕事はこんな感じで決定しました。
まあ、内容的には普通にマイクを出しただけですから簡単でしたけど。

 そんなことで、正式に放送委員入りしたわたしですが、後の細かい話はちょっとづつしましょう。
また、三年生になってからのことは大抵日記に書いてありますから。

 さて、放送室の話でもしましょう。
 三年生の最後の方のかなりの時間を過ごした放送室、
じつは正式名称を第二体育館放送設備室といいます。
私が初めて放送室に入ったのは二年の途中でした。
最初入った時は今のような状態(といっても実際見た人しかわからないでしょうが)
ではなく、大型のごみが渦巻く、ただのモノオキになっていました。
また、一階の体育教官室に入りきらないものをどんどん押し込めたらしく、かなりものがあった状態でした。
それを私と佑はこまかいごみをだし、大型の荷物を除け、いろいろ整理をして今のような
まあ、ある程度は行動ができる場所を作ったのです。
まあ、大変でしたよ。ビデオとかがものすごい量でてきたり、レコードがでてきたりなど
けっこうすごいことになってましたね。一週間ぐらいかかりました。
ちなみに出てきたお宝は「赤き血のイレブン」という私の高校が元となった
昔のアニメのドーナツ盤が出てきました。ドーナツ盤というのは・・・レコードみたいなものです。
これが出てきたことを校長にちょっとはなしたらなんか話がすすんで今は校長室に飾ってあります(涙)

 ・・・・・・大掛かりな掃除のおかげで何とか人がいるスペースがある状態まで復活させることに成功しました。
ま、この「掃除」のおかげで体育教官室の先生方とかなり仲が悪くなってしまいましたが。
(教官室に物を追い返したりしましたし、倉庫としてあの部屋を使っていたのに使えない様にしてしまった為)
(また、もともとあの部屋は生徒が使うようにしていなかったのだが、「放送委員」が使えなくするのは)
(さすがに無理だったらしく、そのことも怒らせてしまったらしい)
とりあえずその「再生」終了後、私が次に起こした行動は「最適化」です(日本語?)
 とりあえず私は切れていたTV回線を繋ぎ、TVを入れました。
入れたというより、そこにあったものなんですが、実はそれが白黒。まあ、今も全然現役ですけどね。
 次に、机、椅子の整備です。ゴミとしておいてあった大量の椅子を使えるものと使えないものに分け、
同時に「何か」が大量においてあった机をきれいにして使えるようにしました。
 また、使われていない電気ポットがあったのでそれを清掃して使えるようにして、それを放送室に入れました。
その時(現在まで続いていますが)バイトとしていっていた、引越しの仕事の時にお客様が
捨てたワンドア式の冷蔵庫を放送室に入れました。現在も現役です。
 同時にパイオニアの大型のスピーカーがゴミとして出ていたのでそれも一緒に。これに自宅のほうで
使わなくなったCDデッキを繋げば立派なコンポになりました。
 そして、今大活躍中のプロジェクターシステムなんですが、
(プロジェクターというのは映画の上映機みたいなものです。ようはスクリーンに絵を映し出すものです)
学校の方で新しいプロジェクターを入れた時に昔のプロジェクターを使わないということになり、
それが第二体育館放送設備室においてありました。
それを使わなくなったスクリーンと組み合わせれば立派なシステムの出来あがりです。
そこにビデオを繋げて映画を流せば結構迫力のあるものに仕上がります
(さらに僕はスピーカーシステムと繋げたので本当に立派なものに)

 ・・・・・・まあ、そんな感じでどんどん使いやすい様にかえてってしまいました。
自分で思うんですがもう手におえません。っていうかすでに上に書いたものだけでなく、
コーヒーメーカーとかPSとか64とか入ってきてます。他にもいろいろ・・・・・・
まあ、どうなるかはわかりませんが、まあ、もう卒業しちまうんですから、ねぇ。

 放送委員という仕事は、僕にとって本当にプラスなことでしたが、同時にマイナスなことでもありました。
それは・・・・・・ここで書くようなことではないですね。
 でも、放送委員としてやってきた高校生活には後悔はありません。
この仕事をやったおかげで、学校のみんなにも覚えやすくなってもらいましたし、
(余談です、八組の親方は僕と間違えられ一年の人に指を差され笑われた経験があるそうです・・・・・・ごめんね)
先生とも仲良くさせていただきました。(一部除く)
なにより放送人ということでいろいろな人と出会うことができました。
また、大学は音響方面志望ということになってます。
僕の人生の変革時だったのかもしれませんね。
僕の高校生活はこの放送と弓道で組み立てられました。

 で、これからなんですけど・・・・・じつは後輩が一年生女子一人という
なんか大変なことになってます。どうしましょう。。。。。。
さすがに一人で放送の仕事は無理です。
普段の集会等なら全然構わないのですが、各イベント(文化祭、予餞会等)は
絶対無理です。断言可能。男子ならもしかしたら可能・・・・・でもいいものはできないでしょう。
というのは実は僕は一回だけ予餞会の予行ですが一人でやったことがあります。
・・・・・・死にました。っていうか無理でした。カバーしきれません。
 こんなわけで放送委員だけは本気で募集。まじで。うちの高校で一年二年を知っている人は
是非入るようにいってください。そうじゃないと・・・・・・正式放送委員が誕生することになります。
それはヤバイって。マジで。

 まあ、ということで、この家庭研修中に学校に居座る放送委員の「高校生について」でした。