高校生活を振り返って。
第三回:弓の道 その壱

弓道についてはちょっとHPと関係ないのでちょっと抑え目の予定です(これから書くんですけど)

 ということで、ついにやってきました、弓道編。
そういや、HPで弓道のことは詳しくやったことはあまりありませんでしたね。
というのも、実は私、弓道部以外に弓術の流派に入っています
(オフラインの友達は知っていると思いますが)
で、その流派の教えの一つに「他言に無用」というものがあります。
要は「必要ないことは言うな」というものです。
まあ、僕はほとんど守ってないんですけどね・・・・・・(苦笑)
とにかく、あまり喋らないようにしていたんですけど、
まあ、卒業しちゃうんだし、だれもこのHPみてないんだから気にしない、ということになり、今回に至ります。

 さて、話は僕が弓道を始めたころからしましょうか。

 弓道部というものがうちの高校にありました。それに入っただけです。
ちなみに、中学校のころはバドミントンをやっていました(最高成績はダブルスで浦和市ベスト8)
また、柔道部からのオファーがはげしく、K先生はいつも「まだ間に合う」といっていましたが。。。。。。
(K先生は何と僕が高校の学校説明にいった時から僕をねらっていたらしいですよ。ごめんなさい)
っていうか、今考えると柔道も良かったなぁ、なんて思う時もありますが、それはいってもしょうがないしねぇ。
ねぇ、サワディー?(笑)
 ちなみにカーネルというあだなは弓道部の先輩が付けてくれました。
こんなに長引くとは思ってはいませんでしたけどね。

 さて、はいったんですが。やはり弓道部というものは仮入部の時はものすごく多いんです。
ええ。まじで。なんせ、弓道ですから。みんな関心を引くんです。
 で、はいらないんです。はいってもすぐいなくなっちゃうとか。
さみしいっすね。ちなみにわがHPに来ている人の中にも弓道部がいたりします。(笑)
 もちろん、運動部の中で少ない、男女共同の部活でして・・・・・・しかも、はっきりいって
あまり強くないし、正式な規律とかもないので、遊び放題です。
ゴールデンウィークになるともう、ドロケイとかしていましたね。
そんななか、私は一人で巻き藁(まきわら)相手に一人で練習とかしていました。
すると、なにが起きるでしょう?そう、「孤立」です。
とはいっても僕はちゃんと練習していただけなので、だれも何も言いませんでしたし、
三年の先輩とかは逆に僕の射型を見てくれたりもしましたが、やはり孤立するもんです。
そんななか、私はひとりで巻き藁練習をしていました。
 週に二回、弓道の講師として、N先生が来ていました。このかたが今私の師匠です。
そう、小笠原弓馬術繁藤弓格、埼玉南支部支部長のN先生です。
その先生にも最初から可愛がってもらってました(私がその弓道部ではめずらしくまじめだったので)
そして、先生から小笠原流のパンフレットを頂いた時、僕の口からこんな言葉が出ました。
「先生、小笠原流にはいりたいんですけど」
 ・・・・・・でちゃったよ。あ〜あ。何故か先生はもうれつ反対しましたが、その反対を押しきり、
小笠原流に入ることを許されました。

 ここで、何故僕はこれほどやる気を起こしていたか、その訳を説明しましょう。
それは、なんといってもK先生の「柔道の期待」でした。
K先生は僕にあれほど柔道をやれ、と言ってくださったのに、
僕はそれに従わず弓道部に入るということを選択してしまいました。
その選択がまちがいではなかったこと、K先生の期待を裏切ってまでやりたかったこと、
そして、K先生に「弓道部はいって良かったです」といえるように、僕が頑張ろうと決めました。
 ・・・・・・まあ、僕が考えてるほど先生の期待なんてなかったのかもしれません。
ですが、それはそれ。僕の中ではものすごく重いことだったのです。

 さて、小笠原流にはいった僕は人より多い量の練習をしました。
(とはいってもうちの学校の弓道部員と比べてですが)
大抵最初に巻き藁をだして、最後に巻き藁をしまっていました。
 また、この時GEN君が入部しました。
このGENくん、入部時期がおそかったため先輩方の教えをもらうことができず、
もっぱら僕が教えていました。それなのに、N先生に「射型がきれいだな」といわれていました。
・・・・・・僕は教えるのだけが上手いのでしょうか?
 小笠原流の練習も順調にこなしていきました。このとき小笠原のほうの弓道場には僕を含め三人の
初心者がいましたが、多分一番矢数を稼いでいたでしょう。

 そんなわけで、みんなが的場(実際の的の前)にたち始めました。
しかし、僕はGENに教えることもあり(このとき自分的には教えることが練習でもあったのです)
そもそも自分の練習もあり、巻藁の前に立っていました。
 まわりの弓道部員はこういうのもなんですが、射型がかたまっていないのに
的前に立ってしまったような気がしていました。というかそうおもうことで
的前に立つことを避けないと、ちょっときつかったですね、正直言うと。
 それから、N先生に的前に立つことをゆるされたこともあり、的前に立ち始めました。
GENはまだ巻き藁をやっていましたが。ちょくちょく見にはいきましたけど。

 さて、そんなわけで、時は流れます。

 夏です。
夏がきました。けっこう尊敬していた三年の先輩も引退し、一年生ほとんどが的前に立つようになりました。
そんななか、僕はものすごい行動に出ました。それは・・・・・・
MY弓を持っていったのです。しかも竹弓。
 え?ふつう弓は竹製じゃないの?、って言う人もいるでしょうが、
実は高校の弓道部で竹製の弓を使っているのはごくわずかでたいていはグラスファイバー製や、
グラスカーボン製の弓を使います。
 このMy弓は実はN先生に借りたものです。っていうか普通、買えません。
ちなみに重さは相当軽いです。下手すると女子が使っているものより軽いものです。
というのも、N先生が「まだ重い弓をひくのはまだ早い」といわれ、一番軽い弓を引いていたのです。
すでに部活のほうでも一本弓を借りていたのですが、それは人に貸しちゃいました(オイ
まあ、つかわないのにかりていてもしょうがないですしね。
 で、軽い弓を使っていたのですが、いかんせん軽いのでまったく矢勢(矢の早さ)がでません。 
で、このころ僕は下手なやつ、と思われていました。
また、なぜか先輩とあまり仲良くなれなかったので(僕的には結構好きだったんですけどね)
あまり面白くない時でもありましたね。
 そんななか、ついに弓の重さが変わる時がきました。
が、そんなに重くはなりませんでした。というのも、やっぱり「まだ早い」ということでしたがね。
とはいっても普通の男子が使うものより少々軽いものでしたから、矢勢も出てきましたし、
あたりも少々出てきました。

 ・・・・・・僕は実は先生から御借りした弓を3本ほど壊しています。
もちろん悪気も何もなかったのですが、やはり罪悪感は残ります。ですが先生は
「貸した自分の責任だから。別に弁償する必要はないよ」といいました。
・・・・・・自分もここまで責任の取れる人間になりたいですね。

 さて、そのうち僕はいつのまにか部活の中でだれよりも重い弓を使うようになりました。
それがまた、先輩達の反感を買ったのでしょうか、それとも僕自身に何か問題があったのでしょうか、
しだいに僕は一人になっていきました。別にだれも僕のことを避けたりはしないし、
僕もみんなと普通に仲が良かったのですが、結局僕は一人でした。
あ、失礼。GENをわすれていました。
というのは僕が一人というのは僕の弓道の流派のせいもあったのです。
僕はひとりで小笠原のおしえを守ってやっていましたが、
それはどうしてもうちのがっこうの弓道部の教えとは違うものなのです。
ですが、N先生が弓道部に講師としてきている以上だれも僕になにかをいうことはできません。
そして、次第に僕は浮いた存在として扱われてきました。

 そのような状態になる途中からぼくは弓道部が終わると市民体育館のほうにいくようになりした。
市民体育館の中に弓道場があって、そこで練習するようになったのです。
六時前に弓道部を引き上げ、六時半から七時ぐらいまでに市民体育館入りし、
九時まで練習して帰る、という毎日になりました。
それが月、火、金以外毎日続きました。土日もです。
 うちの学校の場合外に弓道場があるため、弓胴衣を着て練習するという習慣がありません。
また、照明設備が整っていない為暗くなるとすぐできなくなってしまいます。
市民体育館の場合、室内だし、屋根はあるし、証明はばっちりだし。
環境に関して言うことはありません。
 また市民体育館弓友会のかたがたも本当に親切な人ばかりで、僕がN先生の弟子ということも
理解してくれ、また気づいたことを注意してくれる、そしてなにより弓道好きな方々でした。
 そんななかで自分の弓道をやれた僕はかなり優れた環境にいたと思います。

 そして、冬がきました。

 冬は弓道部にとってきつい季節です。
なんせ、もともと動きやすい格好でなければいけないのに
あまり動かないのでとにかく寒い、というのが理由です。
まあ、もともと寒さにはある程度強い僕にはあまり関係ことでした。
何よりやる気ありましたから。
他の人たちはこの時期はあまりこなくなったり、いつまでたっても部室の中からでてこないとかでした。
そんな中僕は毎日100射を超える数を打っていました。
100射といわれてもピンとこないでしょう。
普通、一回四射打ちます。
そして、大抵10〜15回ほどで時間がきます。
そうすると一日40〜60射ぐらい、ということになりますね。
それに比べるとかなりの数です。
 また、この時期は部員がすくなくなる、ということでしたが、
それは私にとってすごしやすい環境でもある、ということです。
まあ、上でも書きましたが、仲が悪いわけでも目に見えて孤立しているわけでもないので
関係ないっちゃ関係ないんですけどね。
ですが、弓道をやっている時孤立していた、という意味ではとてもやりやすくはなっていました。
そんな調子で私の腕はちょっとずつ上がっていきました。
それほど風邪も引かず。

 話は春、初めの方。

 ・・・・・・僕はついに自分の弓を購入しました。冬休み中に郵便局でバイトしたお金で
自分の弓を買ったのです。まあ、ちょっと先生に肩代わりしてもらったのですが。
 ところが、問題がおきました。弓の種類、重さに関しては先生に御任せしていたのですが
先生はなんと21kgという弓を持ってきました。
 弓道をやっている人は驚くでしょうが、弓道をやっていない人はまったくわからないでしょうから
ご説明しましょう。
 弓道を始めた時、最初に持つ弓は6〜8kgの最軽の弓です。
その後、男子は13kg、女子は10kgぐらいに落ち着きます。
ちょっと強い人は+3kgというところでしょうか。
高校生は普通は16kgぐらいです。
そこに21kgですから相当なものです。上にいけばいくほど一kg増がきつくなるので、
かなりの数だと思います。いわゆる剛弓とよばれるものです。
が、実はこれは現代の数字で、実際弓が戦場で使われていた時とはちがいます。
細かい説明はまた今度にしますが、戦場では30KG以上が普通だったらしいです。
証拠に弦を張る時に数人がかり、という絵が日本史の資料集にかいてあるとおもいます。
まあ、とにもかくにも今の世の中では21はかなりおもいです。
すくなくとも高校生は普通は引かないと思いますよ。
そんな弓をわたされたのです。これは問題ですよ。
普通弓力は2kgぐらいずつ上げるのが普通です。
かずが重くなると一キロずつになります。
それをいきなり4kg以上あげろ、というのです(その前は17KGを使っていた)
さすがに困りましたよ。なんせ最初は自分で弦を張れないんですから。
そんな弓に悪戦苦闘しながら僕はやっていきました。
さすがの市民体育館の人たちもびっくりしてました。

 ・・・・・・で、悪戦苦闘していたら二週間で壊れちゃいました。まじで。
しかもかなりやばめな感じで壊れました。
びっくりしましたよ。なんせ二週間ですから。まあ、毎日100射を超えて打っていた僕がいけないんですけど。
それにしても・・・・・・僕はなんでこんなに弓が壊れるんでしょう・・・・・・
先生に頼んで弓師の人に治してもらうことになりました。

 ・・・・・・実はこの時期僕は一日200射ほど打つようになっていました。
普通の人が一日50射ぐらいですからこれは驚異的な数字です。
弓こわれたのもこれがいけなかったんでしょうね。
しかし・・・・・・今考えてもすごいと思いますよ。200を一日でうつというのはものすごく疲れますから。
しかも普通に7,8割程度あたっていましたから、かなり上手くなっていたと思います。
それほどの腕を持っていたのですが、なぜか試合の上級生のあまりの席には入れませんでしたけどね。
 ・・・・・・正直言うと僕の能力は先輩方より優れていたと思います。
しょうがないといえばしょうがないです。環境も矢数も時間も一年の差を埋め、
また、おいぬかすほどのものでしたから。
ただ、僕は先輩方ととくに仲が良くなかった為、先輩の余りの席に入ることができませんでした。
先輩を押しのけて出るなんてことはまったく考えてはいませんでしたが、
勝負も無しに余りの席に入れなかったのは正直悔しかったです。
自業自得でもあるのですが・・・・・・このころの僕は一番やる気と実力にあふれていました。

 一つの読み物としてはながすぎるのでここら編でその壱を区切ろうと思います。
というか、まだ二年生になったばかりです。いつになったら終わるのでしょう・・・・・・
一つの短編小説並みにかけるような気もしないですねぇ。
まだまだ細かいストーリーが抜けてますから。
まあ、それはオフラインででも。
では、このへんで。